BBKY-weeekly

画文業・ばばかよが小4双子と暮らし流れゆく日々のなか、何かしら記していきます。

『はだしのゲン』と不鮮明な平和

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息子が学校の図書室から『はだしのゲン』を借りてきた。小学生時代に通過儀礼として『はだしのゲン』を体験するのは、2017年も未だ続いているようだ。

わたしも小学校の図書室で読んだ。被爆の凄絶なシーンに恐ろしくなったことだけは憶えている。そのショック強度だけが残り、肝心のストーリーを憶えていない自分に残念なショックを受ける。

 

約40年ぶりに1巻を読み終え、続きを読まずにおれず市の図書館でごっそり全巻借りてきた。ゲンのお父さんやお母さんよりも年上である現在のわたしが『はだしのゲン』を読む。

原爆が投下された街の人々の熱で溶けた身体や、死体がうじ虫で埋め尽くされるシーンに小学校のときと変わらずCG以上の恐怖を感じ、リアル画ではない絵柄でこれほどまでに残酷さを伝えてくる作者の手腕に驚く。作者の中沢さんはやはりとんでもなくすごい!

父、姉、弟、を原爆投下日に失い、その後、母や友も失っていくゲン。戦争への怒り、憎しみをごうごうと燃やしつつ、周囲の人を元気づけて生きぬこうとするゲンに胸を打たれた。小学生の読書時はゲンの魂の素晴らしさまで感じていたかどうか。

興奮の延長ではだしのゲン わたしの遺書』を合わせて読んだ。『はだしのゲン』は中沢さんの自伝をベースにした作品だったと知る。

中沢さんは、広島で見た光景、瞬時に激変した街、大勢の丸焦げ死体の重なり方まで何もかも鮮明に脳に焼き付き忘れられないのだという。父親日本画家で絵心を引き継いでいたとはいえ、当時6歳(小1)だった中沢少年の脅威の記憶力に驚かされる。辛さのあまり忘れようとした方、思い出さないように過ごした方も多かったと聞く。想像すべきことだが、きっと全く違うのだろう。要するにわたしにはこれまで鮮烈な体験はなかったということだ。中沢さんは実母の原爆症障害による死をきっかけに、封印していた怒りをマンガ執筆にぶつける決意をされたのだという。今は『はだしのゲン』を読めることに感謝しかない。わたしは日本人が反戦を訴えるのに「NO WAR」となぜに英語?などを気にするくだらない人間だったが、今後ははっきり反戦でいく!

と、このように「はだしのゲン」に没頭できているのも、子どもたちがダンナの実家へ夏休み帰省して不在だから。

 

図書館に本を返却しに行く途中、亀岡八幡宮に立ち寄る。逗子駅周辺に喫煙所がない一方、この神社にはスタンド灰皿&ベンチが5セットほど設置してあり、杜の中でのびのびとタバコを吸える喫煙者に手厚い神社なのだ。鳥居付近で一服しているとS君が通りがかった。今春から中1になったS君から会釈され、「久しぶりー!」と返す。「ここで何してるんですか?」と質問され、「休憩」と答えた。

 

S君は息子が小1のときに一番仲良くしていた年上の友達で、週2~3うちに遊びに来ていて、たまに昼ご飯や夕飯も食べて帰っていた。一日だけうちにお泊まりしたこともあった。小1と気が合う幼さがある小4なので、風呂上がりのS君の髪をわたしがドライヤーで乾かしたりもした。

S君の父が片時もビール缶を離さないアル中ながらに心底子煩悩な漁師さんで、S君の帰宅時間の連絡をとるため、わたしが連絡をとった最多回数保護者もS君のお父さんであった。ひょんなことからS君父子と鎌倉を半日一緒にぶらぶら散歩したことがあって、そのときお父さんは「あんのやろ~ばかやろ」を50回ほどつぶやきながら、S君を心配している様子がおかしくてしかたなかった。

そのお父さんが昨年、突然の脳内出血で亡くなった。S君が小5になってからぱたっと遊ばなくなり疎遠になっていたが、あのお父さんがあの世へ行ってしまったことがとてもさびしかったし、気になっていた。

S君は元気で、小学校ではバスケをやっていたけど中学の部活ではバレー部に入ったこと、お母さんも元気なこと、夏前に駅の反対側の団地に引っ越ししたことを告げ、神社にお参りして去っていった。引っ越した先は、S君が親子3人で住んでいたアパートより広いと話していたし、心配しなくてよさそうだ。

鮮烈とはほど遠い、ただふわっと心がゆるんだ一日。数年後はきっと思い出せない。