BBKY-weeekly

画文業・ばばかよが小4双子と暮らし流れゆく日々のなか、何かしら記していきます。

生活テトリスと焚き火

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冷蔵庫内に眠らせていた自作の干しぶどう酵母瓶の存在を、買ったドライ酵母を使ったことで再び意識した。半ば安置の領域だったが、処分の前に酵母の生死を確認しなくてはいけない。瓶をふってみるとしゅわっと酵母液は発泡し、匂いをかいでみると白ワインのような香りがした。生きていたのだ。腐っていないものは廃棄できなくなった。気温が高い日に全粒粉を混ぜ発酵種を作ってみると菌は無事むくむくと発酵し、その種でパン生地を作り捏ねさらに2度発酵させ、ブールという丸いパンを焼いた。

天然酵母パン作りは、2011年に思い立って干しぶどうで酵母を作ってみて以来、気がむいたらやる趣味のひとつだ。子どもは当時4歳で、世田谷住まいだった。子育てが落ち着きゆったりした気分になったからパン焼き始めたんだね、などと誤解されがちだが、そうではない。今もまるでゆったりしていない。パン作りはわたしが下手な分、失敗するどきどきもありの緊張感を伴った創作作業であり、さらにパン生地が視覚的にふくらむ、こんがりと焼けるという楽しい変化がある。家に居ながら、たった1日で紙粘土のような固まりからがらりと変化し完成させられるもの。同じく主食の白米が炊飯器で炊き上がった瞬間、今は何の心の動きもない。心も活動も動きの少ない日常の中、わたしはパンの完成に小さなカタルシスを得る。

 

日々の家事育児が襲う慌ただしさについて、「テトリスをこなしているようなもの」とある友人がうまいこといい表したことがある。仕事や雑事が多忙な場合もテトリス状態だとは思う。ただ単身だと一応は落ちものブロックのはめ方を予測しながらテトリスできるところだが、子どもがいると、いきなり予測していないブロックが高速で落ちてきやがる。平日なのに泥だらけにしてきたスニーカー、朝に発見したくしゃくしゃのプリント、子どもがらみの所用ブロックを処理している間に別のブロックが落ちてきて、それをくるっくるっと回転させてなんとかはめこめる対応をしていたら、さっき自分の計画で処理するつもりだった肝心なブロックの方がおかしな位置にはまってしまう。変な積み上がり方をしたままゲームオーバーにもならないわたしのテトリス。今日こそはと挑むも、処理しきれないブロックとストレスの両方がどんどん高くなる。

 

長野県安曇野にある、森のくらし郷という森のキャンプイベントに参加してみた。DIYで作られたツリーハウスが点在し、電気、ガス、水道を整備していない森で、水確保のためには湧き水を汲みに行き、薪を拾って焚き火で調理をする場所である。ここでの生活も普段とまったく別の創作活動である。いたるところ直火禁止で落ち葉で焼き芋もままならぬ昨今、山尾三省さんの「火を焚きなさい」の詩、“火を焚くことができれば それでもう人間なんだ”の思想に焦がれる部分がある。森のくらし郷(通称・森くら)では、みんなで薪を集めてきて、森の生活を熟知したスタッフの方に教えてもらいながら、子どもたちが燃えやすく着火剤となる杉の葉や白樺の木の皮から火を起こす。油が出る小さな実がついてる枝、名前を忘れてしまったが、これがまた良く燃える。細い枝から中くらいの枝、次に薪。少しずつ順々に燃え移っていく火。いつのまにか頬にすすをつけた子どもたちは、焚き火という新しい創作に夢中である。鉄の三脚についた自在鉤には、すすで真っ黒になった大きなやかんがぶら下がっている。わたしは自分もやりたいな、と思いながら魅力的な火を眺めていた。というか、このキャンプ参加費用はわたしが子にかけていた学資保険をひとつ解約して戻ってきた金から出したのである。

ゆったりと真逆の切羽つまったリアルが、火を見つめながら思い出される。何もここでそのマイナスを、と急いで頭から追い出す。2015年以降も、火を焚くことができれば人間でいられるのだろうか。やっぱ火だけじゃ無理ちゃうかな。ていうか、三省さんだってネタを膨らましたのでは…? と邪推したり。みんなが火を囲んでわいわいしているなか、耳を澄ませたときだけ、焚き火がぱちぱちぱち立てている音が聞こえる。